「聴かなくても良くなった音楽」について

前回書いた音楽が聴かれない、というのが我々のエンターテイメントの選択肢が広がりすぎたため、という説を少し考えてみる。(前回の記事はこちら
(※例によって写真は本文とあまり関係ありません。最近適当にiPhoneで撮ったやつです)

分かりやすいのは自分の部屋(もしくはパーソナルスペース)をイメージすることだろう。

80年代、あなた個人の部屋はどんな感じだっただろうか(生まれてない人すいません)。
そこにあるものはベッド、机、洋服ダンス、あとはラジカセくらいだろうか? テレビは個人で持つには高価だったし、電話もたぶんない。そこでの娯楽といえば、本を読むか、ラジカセでラジオやテープを聴くくらい。個人の部屋で外から入ってくる情報はラジオか、雑誌くらいだろう。

90年代になると少しだけ変わる。恐らく部屋には電話が付いたんじゃないだろうか? あと、テレビもひょっとしたらあったかもしれない。ゲーム機もあったかもしれない。今とそれほど変わらないという気もするが、決定的に欠けているのが通信、ネットだ。
この頃の機器はすべてシングルタスクである。電話は喋るしかできない。ラジカセは聴くしかできない。ゲームはプレイすることしかできない。そして何よりそれらは持ち出すことができない。部屋と外の世界はまだ分断されている。

00年代でようやく今に近づく。まずはこの頃から携帯電話の普及率が人口の半数以上になる。携帯電話にカメラが付く。ネットが常時接続になる。ここで変化が起きる。まずは内から外への接続、そして他人の可視化だ。部屋にいても外のことが分かるようになり、赤の他人が何を考えているのかが分かるようになる。

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おそらくみんなは思ったんじゃないだろうか?
「みんな僕と同じように生きているし、そんなにエライ人ばかりでもくだらない人ばかりでもない。そしてみんなはだれかと繋がりを求めている」。

つまり誰かが作った作品をだまってひとりで鑑賞するより、身近にあるもの、みんなが理解できるものを他人と共有する方が楽しい、と。

そして00年代終わりからSNSが普及し、10年代に入ってスマートフォンが登場することでさらなる変化が訪れる。つまり、部屋(パーソナルスペース)が物理的な部屋である必要がなくなってしまった。スマートフォンは上に書いた「かつて部屋にあったもの」をひとつにし、外に持ち出せるようにしたデバイスなのだ。

電話ができる、ニュースも読める、ビデオも見れる、本や雑誌も読める、ゲームもできる。もちろん音楽も聴ける。電話という直接的な手法を使わなくても、SNSやチャットで、非常にソフトに他人と繋がることができる。特にこの「ふんわりとした繋がりの楽しさ、というエンターテイメントが存在する」というのは80年代からは予想もしなかったことだろう。

音楽は決してなくなったわけではない。このコンテンツの多様化と肥大によって「埋もれている」だけだ。

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これが現代の音楽の姿である。聴かれなくなったのではなく「聴かなくてもよくなった」。まさしくそうは思わないだろうか。

この状況下で自分なりに音楽が重要である、という価値観を持つためには、他人ではなくて、自分が必要と思える理由を持たなくてはならない。流行っているから、チャートインしているから、という他人の評価軸はもはや無意味である。

ひょっとしたら、その音楽を取り巻くカルチャーみたいなのが重要かもしれないし、歴史や地理的な背景を知ることが必要かもしれない。あるいはもっと単純に朝に飲むコーヒーをおいしくしたいとか、本を読むための効率的なBGMとか、エクササイズのモチベーションアップに必要だとか、そんなのかもしれない。

音楽はおそらく、あまねく人々が共有すべきコンテンツではなくなってしまった。自分から取りに行かなくては得られないもの。そういう意味でハードルがさらに高くなったような気もするが、これは本来の姿であるような気もする。そう、多分「読書」みたいなのと同じだ。

しかしそれさえ見つかれば、自分にとってかけがえのないパートナーになってくれると、僕は思うのだけど。

 
 

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