ストーリーなきストーリー/【本】騎士団長殺し

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編ちょうどGW中にのんびりと田舎で読んでいたこともあって、久々に集中して読めた。なんだかよく分からない世界に引きずり込む独特の文体や各種小道具、比喩のちりばめ方はさすがだと言わざるを得ない。もはや伝統芸の感すらある。

村上氏は小説を書くときは何も考えずにとにかく書き始めるんだそうである。つまり企画とかストーリーとか、登場人物の設定とか、そういうプリプロダクションみたいなのをやらないらしい。「書かれている物語にまかせる」みたいな(いかにも言いそうだ)ことを言っていた気が。これはもうなんと言っていいか、氏の持ち味みたいなものなので別にいいのだけど、これが生きるのはやはり短編までじゃないかという気がする。

長編というのはやはり「話」としての揺るぎない骨みたいなのが必要だと思う。アップダウン、起承転結、そして収束に向けての加速感と、読後のカタルシス、みたいなもの。もっとシンプルに言えば余計な飾りを取り去って、この話はこう始まって、こうなって、こういう風に終わります、というフレーム。それが最初に意図されているかどうかで随分違うのではないだろうか。読者を長時間(それこそ何日も)拘束するわけだから。

すべての長編がそれを有している必要はないと思うけど、少なくとも村上氏の粘りのある文体や構成力があれば可能なはずだし、今回は特に「そういう話」なのではないだろうか?

ところが書き始めと同じようなインスピレーション重視の感覚で書いている(と思われる)感じが続くため、立ち上がった話が収束していかない。要は先を想定して作られていないので、肉付けしてきた物語を先に進められないわけだ。だからなんとなく例のメタファーや小道具、周辺描写に終始せざるを得ない。「いやいや、細かい描写はいいからさ、さっきの話はどうなったんだよ」と思うところが散見される。風呂敷を広げたはいいが、そのたたみ方が想定されていないわけである。

第1巻は既読感はあるが、主人公が絵描きという設定、創作のあり方、みたいなのが表現されていて僕自身は楽しく読めたのだけど、第2巻になってもそれほど物語が進んでいかない。だんだん嫌な予感がしてくる。やたらと長いメンシキさん家での食事シーン、雨田父の病院の地下(?)の描写やメンシキさん家でのまりえの逃亡劇などは思わず斜め読みしてしまった。なぜこんな冗長なシーンを描こうとするのか。それは先ほどの話、終わりが見えていないからに過ぎない。書きながらどうしよっかなーと考えているからそうなるんだと思う。

結局メンシキさんは何者だったのか、まりえの失踪の理由は何なのか、なぜ奥さんは復縁したのか、そもそも「穴」は何だったのか、すべてが謎のまま(というかほったらかしにされて)物語は終わる。それこそがメタファーだと言いたいのかもしれないが、解釈を読者に任せるにしては描写がそれぞれ細かすぎるし、執拗すぎる。

これらは結局ストーリーの骨がないために起こるのではないだろうか。けっこう風変わりな人物や世界を登場させる作家なだけに、それをどう収束させるのかが腕の見せ所ではあるまいか。また、登場人物の性格がきちんと設定されていないためか、登場人物みんなが同じ性格のように感じられる。他人との会話がそんなスムーズに運ぶはずがないでしょ? このあたりもどうも物語を平坦にしてしまっている要因ではないだろうか。

昔から読んでいるので確かに読めるんだけど、いきなり小説を書き始める、というスタイルでの物語のバリエーションはさすがに枯渇しているのではないか、という気がした。本著のレビューで「村上春樹リミックス」という揶揄もあったようだけど、書き方が同じならそうならざるを得ないだろう。誰だってそうなる。

それが村上春樹だよ、と言われるとそれまでなのだが、長編執筆時には他の仕事を断ってまで毎日書いているらしいので、きちんと設計された「お話」を書いて欲しい、というのが僕の切なる願いである。細かい描写やメタファーや、音楽やウイスキーがなくとも読後「なるほど、さすがに読ませるなあ」と思える話を。