今日という日を彼は知らない

ちょうど10年前の2004年11月のできごと。

そのときまで飼っていた猫が死んだ。

正確な年齢は覚えていないけど13歳だったんじゃなかったかと思う。この猫は(雄猫だった)学生時代、当時友人だった妻が飼い始め、その後結婚したので結果的にふたりで飼った猫となった。

雑種で特にルックスに秀でた猫ではなかったし、性格的にもありきたりだったが僕にもよく懐いてくれた(あまり関係ないか)。しかし、元々部屋飼いではなく、半ノラ的に(外出OKにしていた)飼っていたため、恐らく他の猫とケンカもよくしたのだろう、その手の猫がよくかかるらしい猫エイズにあるときかかってしまった。

だんだんと調子が悪くなり、餌をほとんど食べなくなった。医者に連れて行っても一向に良くならない。
そしてある晩、一緒に寝ていたらひどく痙攣を起こしそのまま冷たくなって僕の胸の中であっという間に死んでしまった。最終的な病名は分からないけど何らかの臓器不全だったのだと思う。明くる日、ワイン屋さんでもらった木のケースを棺にして、花でいっぱいにしたあと、火葬業者に出した。何日かあとに小さな骨壺になって戻ってきた。

僕がこのことをはっきり覚えているのは、僕の胸で猫が死んだ、という事実があったからではない。猫が死んだ翌日がひどく晴れた日だったからだ。

昼間、近くの通りで信号待ちをしていたときに空を見上げて「ああ、今日の空の色をあの猫は見られないんだな」とぼんやり思ったことをすごく覚えている。それくらい晴れて気持ちのいい一日だった。

「今日という日を彼は知らない」

僕はそこに例えようもない悲しさを感じた。喪失ということをそんな風に感じたのは初めてだった。それから10年が経った。家を買ったり、病気になったり、CDを作ったり、また猫を飼ったり、いろいろあったけど、毎年11月になるとこのことを思い出す。

猫の名は「げんちゃん」と言った。「げん」じゃなくて「げんちゃん」。生まれた時にあまり元気がなかったので元気が出るようにという思いで里親さんが付けたんだそうだ。妻はたまに「またげんちゃんに会いたいね」と言う。それを聞くといつも涙が出そうになる。

こういう小さな悲しみというのは、大きな悲しみに比べればややもすると忘れ去られてしまいそうなものだけに、僕はいっそう悲しくなる。リリシズムを纏ってしまうからだろうか。

今いる猫には申し訳ないけど、今一度、げんちゃんを胸に抱きたい。

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