ムラカミハルキについての雑感

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。未だに僕の最高傑作。先日アマゾンに載っていた村上春樹氏の新作レビューで、いろいろ思うところがあったので少し書いてみます。
 
僕が本格的に読み始めたのは20代の半ば頃。ちょうど「ねじまき鳥クロニクル」が出版されていた頃で、それからデビュー当時のものから最近のものまで、ほぼ読んだと思います。
 
一番印象に残っているのが右の写真の「世界の終りとハードボイルド・・・」ですが、「羊をめぐる冒険」も何度も読んだし、「中国行きのスローボート」とか「カンガルー日和」みたいな短編も好きでした。
 
ところが「ねじまき鳥~」でなんだか「あれ」って感じになって、小説はあまり読まなくなった。エッセイとか紀行の方を好んで読んでました。「村上朝日堂」とか「遠い太鼓」とかね。あの頃、太陽とかSINRAとか、雑誌の連載ものが多かったですよね。遠い太鼓は何度も読み返すくらい好きでした。あとギリシャ行くやつ、雨天炎天でしたっけ。
 
そういう意味で割とハルキスト?かもしれませんが、最近の作品は好んで読もうと思わなくなりました。たいてい文庫化されてしばらく経って買ったり、ホテルのライブラリで借りたり。なんだか内容がしっくり来なくなってしまった。1Q84とかも読んだけど、なんだか全然内容覚えてないんですよね。
 
村上作品の魅力のひとつは、登場人物、特に主人公の心情に移入できるところがあると思います。そして偏見ですが、それを気に入る人は割と自意識が強く、孤独を好むような人にその傾向があるような気がします。そして肉体・精神的に若い人。これは実際の登場人物が若く設定されているせいもあるでしょうし、テーマがアドレセンスなものの置き場所というか、そのパースペクティブを模索するというのが多いせいもあるでしょう。
そのピースがはまると、読後になんともいえない「しん」とした、図らずも自省したような心情になる。この辺が魅力じゃないですかね。
 
たぶん、ですが、自分自身がそこにマッチングしなくなったのではと。単に登場人物と年齢が合わなくなった、というよりも何らかの理由で自分の中のアドレセンスなものがすごく少なく・薄くなったのかもしれない。自分の中の「訳のわからなさ」の消失、とでもいうべきか。有り体に言うと「老い」ですね。
 
特に最近の小説はリアルとアンリアルの境界が曖昧なものが多いですよね。物語を楽しむというよりも、読み手の精神の深度が試されているような。氏のインタビューとか見てもそういう試みをしているところがありますよね。昔のような軽妙さが消えて「粘り」と「深み」が出てきている。これはね、けっこうキツイですよ。ちゃんと理解しようと思うと。
 
「世界の終り〜」とかもそういう要素がありますけど、すごくビジュアルというか、ある種自分でストーリーボードみたいなのが描けると思うんです。すごく物語だから。「羊をめぐる冒険」もそうだった。だけど「海辺のカフカ」なんて全く描けない。すんごく抽象的になっちゃう。
 
なので、簡単にいうと自分と自分を取り巻く世界と、氏が考え、表現する世界、というものがけっこう一致しないと、氏の作品は楽しめないのではないかと。なので僕は読んでいませんが最新作がものすごくはまる人もいるだろうし、全然な人もいるだろうという予測はつきます。それってたぶん、実は昔から変わってないのかもね。
 
僕が氏の作品の中で最も好きなモチーフはVanish。「消滅」というよりも「不在さ」という感じ。突然いろいろなものが消えたりするでしょう、あの感覚はたまらなく美しいと思います。悲しいというよりも「単にそこにない」という感覚。アンリアルなのに、不思議と僕にとってはリアリティを感じます。