次のアルバムへの習作(3)

こういう不気味な路地が京都の魅力。だけど、その価値に気づいてる京都人はとても少ないと思う。続いての習作です。

実はウチの家が今年、町内会長になりまして^^
とはいえ、実際には奥さんがやっていて、僕はお手伝いしてるだけなんですけど、改めて町内を考える機会になっています。

京都というのは町内会の結びつきが強いところらしく(他を知らないのでよく分からないけど)、これはひとえに、木造の住宅が密集した独特の住宅街になっていることもあると思います。少なくはなりましたが、町家がそれこそ軒を連ねているので、火事や地震が起こったら、あっという間に何世帯かが被害に遭ってしまう。それに高齢者世帯も多いし。

だから日頃から町内できちんとコミュニケーションとっておいて、いざというときに助け合いましょう、ということだと思うんです。公のサービスを初めから信用してないのかも。

京都はなんとなく「ひっそり住める」みたいなイメージがあるかもしれませんが、そういう意味でけっこううるさいところです。でもそれはそれでいいことだなと思うようになりましたね。

てなわけで、そういう「ご近所感」みたいなのを音にできないかな、と思って作ったのが以下です。前作に続いてディレイをかけたピアノを使っています。

ちなみにタイトルはうちの町名です。

ムラカミハルキについての雑感

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。未だに僕の最高傑作。先日アマゾンに載っていた村上春樹氏の新作レビューで、いろいろ思うところがあったので少し書いてみます。
 
僕が本格的に読み始めたのは20代の半ば頃。ちょうど「ねじまき鳥クロニクル」が出版されていた頃で、それからデビュー当時のものから最近のものまで、ほぼ読んだと思います。
 
一番印象に残っているのが右の写真の「世界の終りとハードボイルド・・・」ですが、「羊をめぐる冒険」も何度も読んだし、「中国行きのスローボート」とか「カンガルー日和」みたいな短編も好きでした。
 
ところが「ねじまき鳥~」でなんだか「あれ」って感じになって、小説はあまり読まなくなった。エッセイとか紀行の方を好んで読んでました。「村上朝日堂」とか「遠い太鼓」とかね。あの頃、太陽とかSINRAとか、雑誌の連載ものが多かったですよね。遠い太鼓は何度も読み返すくらい好きでした。あとギリシャ行くやつ、雨天炎天でしたっけ。
 
そういう意味で割とハルキスト?かもしれませんが、最近の作品は好んで読もうと思わなくなりました。たいてい文庫化されてしばらく経って買ったり、ホテルのライブラリで借りたり。なんだか内容がしっくり来なくなってしまった。1Q84とかも読んだけど、なんだか全然内容覚えてないんですよね。
 
村上作品の魅力のひとつは、登場人物、特に主人公の心情に移入できるところがあると思います。そして偏見ですが、それを気に入る人は割と自意識が強く、孤独を好むような人にその傾向があるような気がします。そして肉体・精神的に若い人。これは実際の登場人物が若く設定されているせいもあるでしょうし、テーマがアドレセンスなものの置き場所というか、そのパースペクティブを模索するというのが多いせいもあるでしょう。
そのピースがはまると、読後になんともいえない「しん」とした、図らずも自省したような心情になる。この辺が魅力じゃないですかね。
 
たぶん、ですが、自分自身がそこにマッチングしなくなったのではと。単に登場人物と年齢が合わなくなった、というよりも何らかの理由で自分の中のアドレセンスなものがすごく少なく・薄くなったのかもしれない。自分の中の「訳のわからなさ」の消失、とでもいうべきか。有り体に言うと「老い」ですね。
 
特に最近の小説はリアルとアンリアルの境界が曖昧なものが多いですよね。物語を楽しむというよりも、読み手の精神の深度が試されているような。氏のインタビューとか見てもそういう試みをしているところがありますよね。昔のような軽妙さが消えて「粘り」と「深み」が出てきている。これはね、けっこうキツイですよ。ちゃんと理解しようと思うと。
 
「世界の終り〜」とかもそういう要素がありますけど、すごくビジュアルというか、ある種自分でストーリーボードみたいなのが描けると思うんです。すごく物語だから。「羊をめぐる冒険」もそうだった。だけど「海辺のカフカ」なんて全く描けない。すんごく抽象的になっちゃう。
 
なので、簡単にいうと自分と自分を取り巻く世界と、氏が考え、表現する世界、というものがけっこう一致しないと、氏の作品は楽しめないのではないかと。なので僕は読んでいませんが最新作がものすごくはまる人もいるだろうし、全然な人もいるだろうという予測はつきます。それってたぶん、実は昔から変わってないのかもね。
 
僕が氏の作品の中で最も好きなモチーフはVanish。「消滅」というよりも「不在さ」という感じ。突然いろいろなものが消えたりするでしょう、あの感覚はたまらなく美しいと思います。悲しいというよりも「単にそこにない」という感覚。アンリアルなのに、不思議と僕にとってはリアリティを感じます。

次のアルバムへの習作(2)

曲を書く時、僕は大体A4のコピー用紙を用意して、そこに曲のイメージを殴り書きしていきます。ノートだと開かなくちゃいけないし、パソコンだともっと見にくいので、フリーハンドで書かれた文字を常に目に届くところに置いておくようにしています。
電話がかかってきたときの、そのメモ用紙にもなってたりするんですけど^^

譜面はほとんど書きません。誰かに渡すこともないし、自分が分かればいいので大体キーくらいしか書いてない。むしろ、もっとビジュアルなもの、と思うんだけど、例えばネットで検索して出てきた画像とかはなんか違うんですよね。自分が撮影したものが近いんだろうけど、そうじゃない場合も多い。絵のうまい人ならスケッチするんだろうね。

てなことで習作2は、まあ出会いと別れというか、どっちかというと別れですけど、決別とかってんじゃなくて、僕の知っているその人ではなくなっていく、みたいな。
小椋佳さんの詞にそういうのがあって。70年代ですかね、「白い一日」という。井上陽水氏が曲を書いたのかな、リアルタイムで知らないので分かんないですけど、あの詞のイメージがずっと頭にあったんです。

ある日 踏切の向こうに君がいて
通り過ぎる 汽車を待つ
遮断機が上がり ふり向いた君は
もう大人の顔を してるだろう

っていう歌詞なんです。 お互い遮断機が上がるのを待ってるのに、なんで君は振り向くんだ、と一瞬突っ込んだけど、君が先に行っちゃってるのを追いかけてるっていうことなのかな?(謎)
ま、という悲しくも当たり前な別れというか。僕には娘はいないけど、こういう体験というか思いをしたお父さんはいるんでしょうかね。

僕なりにその情景をイメージして、さわりを作ってみたのが以下です。さらに展開を加える予定。

次のアルバムへの習作(1)

次のアルバムのために曲を書いているんですが、なかなか難しい〜。

この間のブログにも書いたとおり、今回は言ってしまえば「普通」なんです。ガムランもないし、変な音階もない。日常を描くのってこんな難しいのか〜と思った次第。

でまあいろいろ曲をスケッチしているわけですが、ピアノを中心にしたアコースティックな世界がなんとなくピンと来たので、それで進めています。

エレクトロニックなのもいいんだけど、やっぱりオッサンにはしんどいですね。いい音もあるから、それはそれできちんとイメージできれば何かできるとは思うけど。

てなことでしばらく試作が続きます。

下はとりあえずやってみた曲。春を意識した曲というのはよくやるんですが、その一環です。なんとなく風の溜まりというか、ドラえもんの話で「ふー子」ってあったじゃないですかw  あのイメージなんです。風が溜まっていて、好きなときにそれを出せる、みたいな。そんな話じゃなかったような気もするけど。

まあこんな感じで進めています。よろしければ聴いて下さい。

僕がインストに行った理由

かつて僕は歌をやってました。
でも最初にバンド組んだ頃はそうでもなくて、僕はどちらかというと裏方。いつから歌おうかと思ったかというと、これはやっぱりDavid Sylvianを聴いてからだったと思います。
それまでボーカルって言うとなんとなくスタンドプレイっていうか、パフォーマンスしないといけない、簡単に言うと「芸」ができないといけない、みたいな、そういう偏見がありました。

ところがDavid Sylvianというのは全然そうじゃなかったんですよね。自分のために、自分の内側に向かって歌っている感じ。パーソナルというか。それでああ、こういうのもアリなんだなと思ってやり始めた。それが20歳頃だったでしょうか。

ちなみにこれがDavid Sylvian。これは1stアルバムに入ってた曲で、84年だから30年くらい前ですね。また、ここでピアノを弾いているのは坂本龍一。今聴いても変態な曲ですね。

独特の歌い方する人だし、マネしてもしょうがないよなというのがあって、なんとか自分らしい歌い方ができないかと模索してまして、高い声を出すように、もっと張るように、ってやってたらなんとなく自分のスタイルみたいなのが掴めた感じがした。 それでけっこう曲を書いてて、その時期が長かったですね。30代の前半くらいまでやってたのかな。いわゆるシンガーソングライターですよね。

でもその頃に商業的な音楽をやり始めていて、耳もけっこうシビアになっていたのかな、自分の曲とかを聴くと、もうなんだか聴けないんです。要は下手だと。下手というか、リードパートとして曲を表現できていないなと。つまりそこでようやく歌の才能がない、ということに改めて気づいたわけです^^(遅い!)

じゃあどうしようかなーってのでけっこう悩んでまして。だって今まで割とアイデンティティ的でしたから、それがなくなるというのはなかなか辛い。 その頃にバリ島に通い始めたんです。2000年の前半くらい。でまあ当然のようにガムランとか聴いてたんですけど、不思議と自分でやろうとは思ってなかったです。そっちをやるには少し遠い感じがした。

ただ、当時ヒーリング的に解釈したガムランというのもけっこうあって、奥さんに「お酒飲みながらぼーっと聴けるようなエスニックなやつとかでいいんじゃない?」とか言われて、あ、そーかなーとか思ってキーボードでやってみると、案外すんなりできたんです。その時に「あ、これはアリだな」と思った。

その時にできた曲がこれ。

リンディックっていう竹のガムランのループ音が手元にあって、それを聴きながらキーボードでセッションしてみた。するとメロディもぱっと浮かんだので、すごく完成が早かったのを覚えています。

じゃあせっかくだしアルバムにしようかってことで作ったのが「Sekala Niskala」。アイデアが基本的にガムランをモチーフにした電子音楽だったので、今聴くとまあなんでもアリな感じですね。バリのホテルにもパソコンとキーボードを持ち込んで作っていたのを思い出します。

このアルバムで気に入っているのはこれ。

これは「ウルンウブド」っていうチャンプアンの上の方にあるホテルで作っていたもの。作ってるとき、ホテルのスタッフが聴きに来てましたね。「おまえ、ガムランやるのならなんでホンモノやらないんだ」とか、いろいろ言われたりしてね。

てなことで今に至るわけですが、ボーカルをやっていた頃よりも格段に評価が高くなったので、やはり今の選択は正しかったのだろうと。
ただ、ガムランはひとつの手段なんだろうということ。それを追い求めていこうとは思わないし、サウンドスケープという意味合いでは他にも描きたいスケープはあるので、今後どういうサウンドにしていくかですね。それが楽しみでもあり、苦しみでもあるわけです。

いいオーディオを持とう

制作じゃなくて、リスニングの話。

今や音楽はスマホやPCで聴いたりするものだろうけど、僕らの世代はどこまでもいわゆるオーディオセットです(そうでもないかな?)。

とはいいつつ振り返ると僕が持っていたオーディオはロクなものではなくて、前のセットは大学時代に買ったテクニクスのCDプレーヤと弟にもらったデノンのプリメインアンプ、バイト先の上司にもらったタンノイのスピーカーでした。すべてすごい安物。

20歳くらいから最近までずーっとそのセットだったんですけど(長いね)、一昨年に買い替えたんです。
近くのヨドバシカメラに割と大きいオーディオショップがあったので、そこでまずはスピーカーからいろいろ視聴。定番としてはDALI、JBL、KEF、B&Wといった外国製品だそう。僕は基本的に高域が出るスピーカーが好きで、それで一番ピンときたのがこれ。

Bowers & WilkinsというイギリスのメーカーのCM5というモデル。高域が色っぽい感じで、デザインも良かったしすんなり決定。元々オーディオの知識がないので、自分の耳で判断するしかないから決めるのは早い。

続いてアンプとプレーヤー。こちらはなぜか日本製が定番らしく、デノン、マランツ、ラックスマン、ヤマハだったけれど、僕の音の好みの傾向からいくとマランツがいいとかで、確かにデノンとかと比べると高域がかっちり出て、シャープな感じ。 で、決めたのがこれ。

マランツの8004シリーズ。スピーカーの相性からいくともうワンランク上を勧められたけど、これでもかなり予算オーバー^^ でもメーカーとシリーズを統一した方が特性としてはいいらしく、これに決定。あとから分かったんだけど、B&Wの日本の輸入元はマランツらしく、そう思うと営業にはまったのかな^^ でも輸入元になるくらいだから相性いいんだよね、たぶん。

そんなことでオーディオの知識を全く持たぬまま、買っちゃったわけです。
で、自宅リビングにセッティングしてジャズとかボサノバとか聴いてみたんですけど、凄い。前には聞こえなかった音が聞こえるし、何より音にすごく「艶」が乗った感じ。エロい。スピーカーの出力も部屋に合っていて、余裕で鳴っている感じ。

それでクラシックをかけてみたんです。確かカラヤンのベートーヴェンのシンフォニー。これがまたすごく良くて、特に弦がすごく美しい。うわー、クラシックってこんなに凄かったんだってその時ようやく気づきました(遅い!)。

で、逆にダメというか合ってないなと思ったのがロック。ものによると思いますが、とにかくうるさくなるんです。過剰になるというか。高域もキンキンするし。

てなことで、大げさに言うと音楽の嗜好が変わってしまったオーディオでした。
でも歳も歳だし、クラシックなんかを気持ちよく聴けるのはそれはそれでいいことかなと。今まで未開拓のジャンルだしね。

ということで、ある年齢に来たら、きちんとしたオーディオは持っていた方がいいなと改めて思ったのでした。自分の嗜好にあってさえいれば何十万かかける意味は必ずあると思います。


今つくっているもの

Open sky今は何をしているかというと次のアルバムの準備です。

実を言うと、この間出した「Life to Come」を作ってからハタと思ったんです。「あれ、俺、これから何作ったらいいんだっけ?」と。でもよくスポーツ選手が言うように「全力を出し切りました。悔いはありません」みたいなことは全然なくて、普通に淡々とやったつもりなんですけど、急に作るべきものが見えなくなった。

今までそういうのってなかったから余計に焦ってしまって。ちょうど精神的にも参ってた時だったので、本当にしんどかった。曲が書けないっていうのはねえ、ちょっと凄い感覚でした。書けないというより書くものがない、という方が正しい。で、もう毎日映画見たり本読んだりしてて、音楽から遠ざかってました。

前にも書いたことあるんだけど、僕の場合は音楽というより「音楽を通して見えるビジョン」がないとだめなのです。絵ですね。その絵が描けるかどうか。で、思ったのは今回はガムランじゃないなと。というかそういうエスニックなものじゃない。もっと日常だなって思ったのです。

日常という意味では元々、住んでいる京都をテーマに何か作ろうと思っていました。実際に商業的にはそういうオーダーも多かったし、何か需要があるんだろうなと。でも実際京都の音楽、というのを自分なりにやってみると、凄く暗くなっちゃうんです。京都はやはりダークネスな部分が魅力だと思うから。それはそれで突き詰めると面白いんだろうけど、今の自分の気分じゃない。20代くらいならやってたと思うけど、何だか今の気分にそぐわない。要は暗い曲を書きたくないんですよね。ずーっと暗い曲ばかり書いてた僕が言うのもなんですけど。

なるほど、じゃあ日常ってなんだ?って考え始めると、これがけっこう難しい。それであんまり考えるのはやめにして、前作が「Life to Come」っていう「来世」っていうのが設定した世界だったから、じゃあその逆をやればいいのかなと。で、出てきたテーマが「この世」なのです^^

つまりできるだけ具体的な音を使って、日々慣れ親しんだ音階で、日々の生活を描いてみようと。という回り回って実にシンプルなイメージになったというわけ。なので音としては単純。複雑な和音も変な音階もない。周りにあるもの、そこから感じるストレートな世界。今日過ごした時間が明日もあるような世界。寝る前に今日もそんなにすごくいい日じゃなかったけど、そんなに悪い日でもなかったな、って思える世界。

というコンセプトで曲を書いてたりしています。道は遠いな・・・

サイトリニューアル

作業中4月だし、昨年に比べると少し気分も良いのでサイトを新しくしてみました。しかし思い返すだに、昨年はしんどかったなあ。なんででしょね。長い厄だなあw これから厄年を迎える人には申し訳ないけど、「数年は続くよ」と申し上げておきましょう。

元々ブログはあったのだけど、サイトはひとつにしたいというのがあったので、合体してみました。ベースはWordpressで、音楽配信はSoundcloud。しかし個人でサイト作ったり、音楽配信するのはここ何年かで本当に便利になりましたよね。僕みたいな「おひとりさまミュージシャン」にはありがたい話です。

で、思い出したのが以下の記事。

音楽がミュージシャンのところに帰ってきた

紹介されている本は未読ですが、納得する内容です。 制作環境のクオリティが上がって、ローコストになり、広報手段と頒布手段が多様になった。大きいのはそれらが個人ベースでできるようになったということ。僕みたいにひとりでチマチマやってる人にはまさしく福音なわけです。

僕が音楽を作り始めた頃は、80年代の終わりくらいかな、とにかく制作環境が酷かった。デジタルの技術は出始めていたけど、アマチュアにはほど遠かったし、とにかく出したい音が出せない。そして音源化できてもカセットテープが関の山。それを発表しようと思っても楽器屋とかに頼み込んで置いてもらうくらい。あとはライブするしかないよね。

僕はとにかくバンドが苦手で「いかにひとりで完結できるか」について、ずーっと考えてきたので、今の環境というのは本当に凄いなと思います。音楽市場が縮小しているとはいえ、個人に与えている武器はすごく強いものになったなと。願わくばあと20年くらい若ければ^^

てなことで、これからもチマチマと作っていきますので、宜しくお願いします。