「Sou」オーディオデモ&曲解説(後半)

続いて後半5曲です。

前半はこちら

6. Kiko
以前、俵屋という旅館で見た七夕の設えを見て思いついた曲。この行事はもともとは「乞巧奠(きこうでん)」といって、女性の技術だった織りや裁縫などが上手くなるように願ったもの。なぜか設えには琵琶とか琴が置いてあって、それがとても詩的だったんです。

7. Rokudo
毎年お盆に東山の六道珍皇寺で行われる「六道まいり」という行事からインスパイアされたもの。ものすごくダークなお祭りで、思わず「あっち」に引き込まれそうになります。元々お盆はそういう時期ですが、京都のこの場所はそのパワーが半端ないです。僕なりの禁忌、という感覚。

8. Until She Comes
コンセプトとしては1曲目に似ています。もう少し情景的で、比叡山の山中の夜明け前、という感じ。霧がかっていて、肌寒くて、梵鐘が聞こえて、ひとりなんだけど非常に満ちた感覚というか。静的で霊的。比叡山の行者さんも、こういう感覚を持つのかなと考えたりしました。

9. Come Winter
京都の師走のイメージ。具体的には錦市場とかあのあたりの賑わいをイメージしています。ざわざわした感じと、そこに含まれる新年への祈りや予感。京都人のケとハレ。そのギャップみたいなもの。こういうのも京都の魅力だと思います。これこそ住まないと分からないかもしれません。

10. Eyes of the Mask
4曲目の「Still Life」が影だとしたら、こちらは光。職人さんの手によって作られた衣装や面で舞う演者のイメージ。でも全く派手ではなくて、心の奥底を少しずつにじませていくようなダンスと言うか。能面の目に宿る深み。あれが京都の芸能のひとつの美意識だと思います。

 
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音楽の「強度」とは何だろう?

「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。」

これは村上春樹の作品「海辺のカフカ」に出てくる一節。小説自体は全然覚えてないけど(失礼)、この一節だけは妙に覚えている。

確かシューベルトの音楽について語られていたと思うのだけど、確かにクラシックを聴くようになってこのセリフをよく思い出す。僕の場合はベートーヴェンのピアノソナタとか、バッハのゴルドベルクとかそのあたり。よく聴くけど、確かに飽きない。あとはボサノヴァとかのゆるいラテン系の音楽。このあたりも飽きない。

この「退屈だけど飽きない」音楽というのは人によって違うと思うけど、得てして言えることは器楽構成として奇をてらっていない、楽理的に正しい、ピッチがいい、そして何よりアコースティック系、というのが言えると思う。きつい電子音とか歪んだギターとか、シャウトするボーカルとか、アウトするギターソロとか、やたらと変拍子とか、そういうので当てはまるものは少ない気がする(あるかもしれないけど)。

つまり音楽よりも何か思想やアイデアのようなものが勝ったりするとダメということだろうか? このあたりは解説している人を知らないので予測にすぎないわけだけど。

さて、このあたりで「音楽が聴かれなくなった」という昨今の兆候の話につながる。

音楽が聴かれないのは、まず第一に「聴かなくても別にいい」という我々の生活におけるエンターテイメントの選択肢の拡大があり、次にあるのが「聴かれるべき音楽がない」という気がする。これってやっぱり飽きない音楽が少ないからじゃないだろうか?

冒頭で述べた「飽きないものは退屈である」というのは、逆にいうと「あまり刺激的じゃないけど、気に入っていて何年も大体聴いている」ということではないだろうか?

こういうのは有り体に言うと普遍性ということになるのだろうけど、僕は「音楽の強度」だと思っている。強い音楽。時間が経っても、演奏家が変わっても、流行が変わっても、音質が変わっても、再生装置が変わっても聴ける音楽。

このあたりに今後やっていく音楽のヒントがあるような気がする。
 

「Sou」オーディオデモ&曲解説(前半)

4thアルバムをお買い上げいただいた方、ありがとうございます。
ここでひとつ、それぞれがどんなコンセプトなのかを紹介します。好きなように聴いていただければいいんですが、僕なりの思いもありますので、参考までに。

ひとまず前半5曲(全て2分程度のショートバージョンです)。

1. Waiting for the Air
このアルバムを作るきっかけになった曲。もともとは京都の某伝統文化系のイベント用に書いた曲。その時は「待つ」というぼんやりした感覚をコンセプトにしてました。何かを待っているわけではないけど、待っている。そんな心象。自分とまわりの抽象的な距離感というか。

2. The Name of the Bamboo
竹林の中に吹く風、という感じです。さわやかだけどどこかざわざわするような、何か予感をはらんだ禍々しい感じというか。京都はどこにいてもそういう感覚に陥りやすいですが、明るいグリーンとの対比でそれが増幅される感じがします。

3. Sara
妙心寺というお寺の塔頭、東林院で有名な沙羅双樹をモチーフにしたもの。沙羅の花というのははらはらじゃなくて、ぽとっと落ちるんですよね。朝に咲いて夜に落ちるという。その無常観はとても宗教的です。しかも梅雨の時期というのがとても詩的だなと思います。

4. Still Life
西陣の職人、みたいなイメージで作ったものです。静かに頑固に昔からものを作り続けている人とその生活、というような。京都はStillnessに生きる、というのがとても似合う町です。干渉しない、というところを究極まで突き詰めるとそうなるのかな、と思ったり。

5. Around the Water
京都の3名水のひとつ「染井」がある御所のそばの梨木神社を題材にとったもの。京都と水というのは密接な関係があって、土地の成り立ちにも関係しているし、飲み水もそうだし、食材にも上手く生かされています。フランスでいう「Eau de vie(命の水)」という感じ。

 
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4thアルバム「Sou」リリース!



 

ということで4thアルバムリリースです。

以前にも書いてますが、京都をテーマにしたインストアルバムで、方向性としては一連のガムランものと同じで「風景や気配に音をつける」という、一種のサウンドトラック的なやり方。手法が同じ、ということですね。そういう手法を総括するようなタイトルってことで「想」と名付けました。

京都を音にする、というのは得てして分かりやすい「和」に陥りがちですが、なるだけあざとくならないように、とは思ってました(自分が思ってるよりあざといかも、ですが)。そういうコンセプト柄、ひたすら地味。というか派手になりようがないですが、作りながらやっぱりそういう土地なんだろうな、と思ったりして。

制作期間はブログを見ると2014年くらいから考え始めてるので実質2年くらい。というより、前のアルバムの「For」の時にこれは違うコンセプト用だなと思って先送りにした曲とか、あるいはいつかそういうコンセプトがある時に追加しよう、みたいな曲もあったので、足掛けでいうと数年以上かかってると思います。

発端は何かと言うと1曲目に入っている「Waiting for the Air」という曲。これは某イベントのために書いた曲で、その時仕事で京都をテーマにした曲をいろいろ書いていたので、これはまとめることができるんじゃないかなーとほんのり考えてました。でもやっぱりなんだかまとまらなくて、その間にガムランやったりしてたので、ようやく今になったというわけです。

なぜまとまらないかというと、やっぱり住んでる場所だからというのが大きいと思う。憧憬、という考え方だと簡単なんだけど、日々のリアルなことがあるわけだし、なんで住んでる場所のことを音にする必要があるのか、みたいなことも思ってたし、かといってあざとくなるのもヤだしとか、いろんな葛藤がありました。この辺がガムランとの大きな違いかと思います。

でも矛盾するようですが「何かできそうではある」という感覚がずっとあったんだと思います。それは衝動としては大事なことですよね。なのでその感覚を大事にしつつ。何度も挫折しかけましたが、ようやく、というか。

作り方としては相変わらず一人で、受験勉強のようにちくちく机に向かう感じで^^ 本当は随所で出てくる琴とかチェロとか、そんな楽器を弾く人がいれば一緒にやりたかったですが。

唯一コラボしたのがアートワーク。ジャケットについてはそれっぽい京都の写真を使えばたちどころにそれっぽくなるんですけど、それだとホテルのサイトみたいになっちゃうので、もっと純粋にグラフィックで表現できないかな、と思っていて、思いついたのが昔からデザイナーとしてお世話になっていた佐々木まなびさんでした(裏具というステーショナリーショップのデザイナーさんとしても有名です)。この方も京都の感覚の表現をずっと追求されてる方なので何か面白いものができるんじゃないかと思ったんです。で、お願いしたら快諾していただいて。嬉しかったです。

まとまる寸前のデモを聴いてもらって今回のになったんですけど、彼女曰く「境界のあいまいな感じ」なんだそうです。僕はそれはあまり意識しなかったのであーそんな風に聞こえるのか、と改めて思ったり。最初デザインのラフを見たとき「現代の水墨画みたいだなー」と思いました。意図しなかったですが、これもアリかもと。

それでその風合いというんですかね、それを生かしたくて今回はプラスティックのケースじゃなくて紙ジャケットにしています。なのでデジタルストリーミングなご時世ではありますが、ぜひCD版でお聴きください。

CD版はアマゾンのほか、ストア.jpというところでも販売中。こちらは僕が発送しますので手作り感満開です^^ デジタル版はiTunesほかAmzon MP3などが有名どころですが、その他のストリーミングサービスでも聴けるんじゃないかと思います。曲紹介はまた改めて。

試聴は以下より。

 

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酒飲み天国・ランカウイ

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今、マレーシアのランカウイというところで休暇中。中国とイスラムが適度に混ざったような、すごく不思議な町です。バリみたいに闇に引き込まれることがない感じがラク。ガムランも聞こえないし(そういう意味でバリって僕にとっては重いんです。これは説明してもあまり分かってもらえない・・・)。

ということで、日本から離れてようやくリラックスできたのでとりとめもなく雑記を。
例によって写真は滞在中に適当に撮ったもので、あまり本文と関係がありません。

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4thアルバムはお休み前にようやくマスタリングを終え、というかこれ以上やってもこれ以上のものはできない、というところまで来たのであとはプレスと流通。ブログをみると昨年の11月くらいに曲作りを終えてるので、それ以降半年くらいかかってます。なんでだろう? 今までであり得ない。

根性でやれば年明けには出せたはずだけど、とにかくミックス・マスタリングが上手くいかなくて。ミックスは割と得意なので楽勝だと思ってたけど甘かった。

ミックス(ダウン)という作業は各トラックの音量や音質のバランスを整えることですが、まずここで躓いた。昨日いいと思ったバランスが今日聴くとちょっと違う、みたいなことが続いて。なんでだろう? 昔と耳は変わってないはずなんだけど。

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しかしライフワークとして続けてきたこのアルバム作りもそろそろネタ切れ(浅い・・・)。何度も書いてますが僕の曲の作り方というのはBGMなんです。まず映像とか何らかビジュアルがあって、そこに曲を載せるというすごく静的な世界。劇伴でもないし、ライブもないし、もの凄く地味な世界です。誰かが言ってくれてたけど「気配に曲をつける」というか。

アンビエントほど抽象化せず、ニューエイジほどあっち側でもなく、BGMというには聴きづらく、とはいえ音楽的に優れているわけではない。というと一体何なんだろう?って。もともとジャンルとかカテゴリーを毛嫌いしてたのもあるけど、これを説明するのはなかなか難しいです。

加えてみんなが音楽そのものを聴かなくなっている現状を鑑みると、このまま音楽をやっていてもかなり厳しいなと。だって聴かれなくなるわけだからね。なので音楽が必然である状況を作らないと。

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例えば以前のブログにも書いたけど、音楽は必要ないけど音は必要じゃないですか。映画を見ても、テレビを見ても、芝居を見ても無音じゃ成り立たない。常に何らかの音が必要とされている。

これからますます音楽はその程度の認識になるだろうと。そもそも音楽だけ鑑賞するというスタイルそのものが特異というか、レコード&CDの存在に慣れてしまったが故というか。そういう意味で言うと映画っていうのはなかなか根気強いというか、廃れないメディアだよね。坂本龍一が近年、サントラばっかりやってるのもよく分かる。

じゃあ僕たちはどうするの?という。
今のところ音が必要とされるようなものを作ること、としか言いようがない。
映画なんてほど遠いし、なんらかの映像ってことになるんだろうけど、それはそれでまた別のスキルが要求されるしなあ。。。

このあたりに何かキーはある気がするんだけど、まださっぱり。
さてどうしますかね・・・

(閑話休題)
先日まで合間に珍しくアマゾンプライムでドラマを見てました。
「Mad Dogs」というやつですが、元々はイギリスのドラマでそのリメイクらしい。
おっさん4人が南国で事件に巻き込まれるというものでしたが、話としていいか悪いかは別として、南国で彷徨うというのは割と好きなシチュエーションなので見れたのかも。有名な「24」とか「ウォーキングデッド」とかも途中で挫折しちゃったしねえ。

↓※しかしすごいサムネw

 

音楽制作と料理の関係

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4thアルバムのミックスをようやくやっているのだけど、音源をいろいろ差し替えたい関係上、アレンジもちょっと変わったりして、遅遅として進みません。何度も聴いた曲をさらにリテイクしていく作業というのはなかなかしんどい。何よりモチベーションが上がらないんですよね。

ずっとMacに向かってあーでもないこーでもないとやりつつ、飽きたらYoutubeとか見たりして。そして夜になると料理を作り、風呂に入る。その繰り返し。地味すぎる毎日でございます。

この間、料理を作りながら、音楽制作での頭の使い方と、料理での頭の使い方は割と似ているなあと思った。
どの辺が似ているかをちょっと考えてみた。



 

役割の認識

料理は極端に言えばレシピ通りやればそれなりにできるわけだが、例えば調味料はそれぞれどういう効果があるのかとか、なぜここで弱火にするのかとか、食材はなぜこの大きさなのかとか、それぞれの意味を考えるというのは音楽でいうアレンジとほぼ同じである。それぞれがそれぞれに与えられた役割を果たしているのが良いアレンジ。逆に言うと、それぞれのパーツの役割がちゃんと果たされていない音楽や料理は絶対どこかに無駄がある。
 
 

イメージの重要性

どんな曲にしようか?というアイデアから始まり、そのイメージを固めた上で曲を書き、楽器を選び、アレンジする。どんな曲でも必ず僕は最初のイメージを重要視する。料理も同じで、何が食べたいか? そしてそれはどんな味なのか? をきちんとイメージした上でレシピを探し、材料を買い、作る。そうでないと方向性がブレる。最終形を完璧にイメージすることが良い曲・良い味にするための必要条件じゃないかと思う。
 
 

手順の保守性

音楽の場合、曲づくりから始まって、アレンジ、録音、ミックス、マスタリングという順序をたどって初めて曲となる。革新的な曲はあるだろうけど、作業順序という意味合いでの革新性は存在しない。料理も奇抜な材料を使ったり、あり得ない調味料を使うことはあるだろうけど、レシピをつくり、材料を切り、火を通し、味を調え、器に盛るという手順はほぼ同じはずである。
 
 

組み合わせの妙

例えば家に豆腐があれば、例えばあとミンチを買えば麻婆豆腐ができるな、とか、あるいは今冷蔵庫にある素材だけで何ができるだろう?とか、豚バラはないけど油揚げで代用しよう、とか、実はクリエイティブなことをやっていたりする。音楽ももちろん一緒で、ひとつのギターフレーズがあったとしたら、キーボードを入れてもいいし、そのフレーズを逆回転させてみてもいい。そこは手順と違って特にルールはない。
 
 

神は細部に宿る

手を抜く、というかいい加減にやってしまうといい加減な結果しか出ない、ということである。 例えば材料をきちんと切る、調味料の配合を守る、火の通り方をきちんと観察する、手順を飛ばさないなど、基本的なことだが、ひとつひとつをていねいにやる。音楽の場合はしかるべきレベルでちゃんと録音する、ノイズに気を配る、イコライジングに時間をかける・・・などなど、料理も音楽もひとつひとつの工程には意味があり、それを軽視すると旨いもの、良い音楽は生まれない。
 
 



とまあ思いつく限り挙げてみたけど、こんなもんでしょうか。
であるので、何かもの作りをしている人は音楽に限らずその相似性を感じることができるんじゃないだろうか?

料理は奥さんに任せている、という人も多いとは思いますが、ぜひやってみてください。自身の健康管理もできるしね。以前の記事にも書きましたが、今はクックパッドとか便利なものがあるので昔より確実にハードルは下がっていると思われます。

さて、ミックス作業に戻ろう〜

 

「ギリギリSF感」の復権/【映画】Starwars「フォースの覚醒」

Star Warsさん(@starwars)が投稿した写真

あえて言おう。
我々の世代にとって、スターウォーズというのは映画と言うより人生に寄り添ってきたひとつのカルチャーである。

これは間違いなく歴史がそうさせている。スターウォーズ以外に40年間近く上映されているメジャーな映画があるだろうか? なので必然的にその深度というのは共有できないことが多い。深い人はすさまじく深いし、知らない人はどこまでも知らない。そこにはマリアナ海溝よりも深いキャズムが存在する。いずれにしても軽く「あれよかったよね」みたいな感じでシェアできるようなものではない、と思う。

最初に公開されたのは1978年。当時小学生の僕は映画を見るなんて行為自体、未知の世界なので見た友人が教えてくれた。「川本くん、すごい映画だよ。とにかくすごいんだ」と、半ば興奮気味に話してくれたことをよく覚えている。小学生がそんな反応をしていたわけだから、世の大人たちはさぞ驚いたことだろう(有名な話だが、当時デビューしたYMOの初期の楽曲「ライディーン」のコンセプトのひとつにもなっている)。
 

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それがエピソード4。当時はそんな番号は付いておらず、「New Hope」なんて副題もなく、それがとてつもなく長い話の一部であることも知らなかった。中学生のころにテレビ放送か何かで初めて見て、確かに面白かったのだけど劇中に登場するおじいさん(オビワン)が一体誰なのか、何やら悪役(ダースベイダー)と関係があるっぽいが、それらが一切分からないまま映画が終わっているので「???」となったのも事実だ。恐らくみんな思っていたんじゃないだろうか。

その後続編が2作作られ、ひとまず終了したわけだが、さらにダースベイダーが主人公の父だったことや、主人公とお姫様が兄妹だったなど、新たな事実が判明するとともに、監督であるジョージルーカスが「実はこの作品は9部作で、今回描いたのはその真ん中の話」とカミングアウトするなど、ますます「???」となった。

それでもエピソード4~6というのはSFアドベンチャーとして非常によくできており、レンタルビデオ店ではいつも貸し出し中だったし(セルビデオもあったと思うけどとても高額だった)、テレビでもよく放送されていた。やはりその頃に影響を受けた青少年が僕くらいの世代だったんだろうなと推測する。
 

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ところが90年代の半ばくらいだったか、いきなり監督は「続編を制作する」と発表する。なんでも元々は作る気満々だったらしいが、描きたいことがその頃の制作技術では描ききれないのでためらっていたらしい。その契機になったのがスピルバーグの映画「ジュラシックパーク」のCG技術であったことは有名な話。

それで作られたのがエピソード1。つまり9部作のド頭。これが続編というより話がさかのぼった新3部作のスタートで、確か公開は2000年の初め頃。4~6とは全く異なる世界観、ファンタジックなクリーチャー、つるつるしたCG満開の映像にみんな戸惑った。でも今まで謎だったオビワン、アナキンといったキャラが登場し、ずっと謎だった部分が解決していくということで、僕はとてもわくわくした。公開当時旅行したパリでキャラクターのフィギュアをたくさん買ったのを思い出す。

そして子どもの頃に見たエピソード4にきれいにつながるエピソード3が公開されたのが2005年。この間27年。10代で見た作品の続きを30代で見る、というのはよく考えるとちょっとすごい。そしてこれで9部作のうち6部が埋まる。話も完結し、謎だった部分も解決したのでまさしく「これで終わり」という感じだった。実際、監督の手でさらに作品が作られることはなかった。「ああ、もう(スターウォーズは)終わったんだ」という感じがとても切なかった。
 

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そしてしばらくして監督がスターウォーズの全権利を売却するという衝撃のニュースが発表される。しかも売り先はディズニー。これもまたみんな戸惑った。ネットにはジェダイのかっこうをしたミッキーマウスのイラストが出回った。でもこれでようやく監督がやめる決心をしたことがよく分かったし、もう終わったのだからあとは好きにしたらいいんじゃないだろうかと僕は思った。今まで十分楽しませてもらったのだから、あとは若い世代をまた楽しませてやってくれ、と。

そして今回のエピソード7の制作が発表されたのがその後すぐ、確か2013年くらいだったかと思う。エピソード6の30年後の話を描くという、かつてエピソード1が公開された時と真逆の、実質的な続編だ。ルーカス抜きで?ディズニーで?終わった話をどうすんの?みたいに思ったけど、よく考えたら元は9部作。ただ、ルーカスがいない後の3部作なわけで、いったいどうするんだろうと。僕は脚本は元々存在していて、それを使うんだろうなと思っていた。

そして矢継ぎ早に監督やキャストが発表される。JJエイブラムスという(僕は)全く知らなかった若い監督、キャストは旧3部作からの俳優陣と、新たにキャスティングされた全く知らない若い俳優たち。内容はまだまだ秘密だったが、オリジナルキャストが出演することは決まっていたので、いろんな妄想がネットを駆けめぐる。エピソード6のラストから、やっぱりソロとレイアの子どもの話なんじゃないか、というのが有力な噂だった(それはある意味当たっていたが)。
 

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そしてこれでもかと発売されるコラボ商品。「なんだこれは。まるでディズニー映画じゃないか!」と思ったが本当にディズニー映画だったわけである。エピソード3の、あの救いようのないダークネスと絶望を直近で見ている僕には俄かに信じられなかった。ちなみに大のスターウォーズファンである友人の奥さんは(僕の知っている限り、ご自宅には等身大のR2-D2のフィギュアがある)公開までそんな商品や、予告編やネットの情報も見なかったらしい。もの凄く大変だったと言っていた。

そして予定通り2015年12月18日、ほんの10年前までは誰もが予想していなかったエピソード7が公開されることとなる。新章になるとはいえ、これだけ分厚い歴史のあるスターウォーズを、特にトラブルらしいトラブルもなく(少なくともスムーズに見えた)撮りきったJJエイブラムスは本当にすごいと思う。よっぽど頭がいいのか、ものすごく強靱なメンタルの持ち主なのか、全くもって不思議な男である。
 

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そんなわけで前振りはこのへんにして、今回のエピソード7の感想を述べる(当然ものすごくネタバレなので未見の方はこの先ご注意)。

ちなみに視聴回数は4回。TOHOシネマズ2D字幕×1、シネプレックス4DX吹き替え×1、IMAX3D字幕×2。IMAXは新しくできたエキスポシティ。映像・音響はダントツで凄まじかった。

ところが1回目を見終えた後、僕が思ったのは意外にも「つまらない」だった。とにかくキャラクターの存在や定義付けが安直に感じられて、肩すかしをくらった感じ。そんなハズはないと、パンフレットを隅から隅まで読み、ネットの情報も参考にストーリーやキャラ設定を完全に理解して2回目。するとなぜだか、、、もう抜群に良くなっている。なぜだなぜだ? なるほど、これは理解度を試されていると思った。やはり一筋縄ではいかないんだと察した。レビューについては賛否両論だそうだけど、恐らく否定的な意見の人は理解度が浅いのではないかと思う。逆に言うとそれくらい練りこまれているということだと思った。

ひとつは新章となるための「新しさ」の創出と、30年前の作品から橋渡しするための「古さ」のバランス。これは監督も随分頭を使ったことだろう。ルーカスのサジェスチョンが全くない(と思う)以上、今あるマテリアルからどう発展させるか(あるいはどうリセットするか)を考えるしかない。エイブラムスが選んだのは過去のパーツをものすごく美味しいところでエッセンスとして使うのみとし、メインとしては持ってこない、というやり方だった。これが上手かった。
 

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メインとなるキャラクターも星も完全に新しいのに、押さえるべきところで古いモチーフが登場する。しかも例えようもなくカッコよく(こういうのを昭和的にはしびれるっていうんだっけ?)。惜しむらくは敵の星を破壊するというメインストーリーがあり、その秘密をドロイドが握っている、という設定をトレースしているので、これは完全に新しいものにしても良かったと思う。

キャラクターの設定はあんなものだろう。女性をメインキャラに持ってきたのは時代なんだろうし、フィンは余計とも思えるが、物語のバランスをとる上ではアリかもしれない。面白かったのはかつての帝国軍に近い「ファーストオーダー」がまだ組織として完成されてはおらず(の割にはすごい兵器を開発していたが)、ダースベイダーのリプレイスとなる「カイロレン」が非常に中途半端な「悪」だったこと。あれじゃまるで中二病こじらせたヤンキーだよw でもそれが今までない危なっかしい感じで面白い。かつての悪は本当に「極悪」だったから。

ソロがあっけなく死んだのは恐らく想像だけど、ハリソンフォードが「もうスターウォーズに出るのはこれっきりだよ」って監督に進言したんじゃないかなと。それで急遽そういうシナリオになったんじゃないだろうか。ただ、何かにも書いてあったけど、エピソード6があんなにハッピーエンドで、旧キャラクターはみんな仲良く暮らしてるのかなと思ったら全然逆で、なおかつソロが死んでしまって、もうレイア、ルーク、ソロ、チューバッカが昔のように集合するシーンが実現不可能になったのが悲しい。
 

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何より僕が一番感動したのは「質感」。エピソード1〜3のつるつるした感じから、4〜6よりのリアルな空気感に戻ったのはすごく良かったと思う。もちろんロケ撮影・プロップ(模型)作りを重視した結果だとは思うけど、すでにそういうものと違和感無く溶け込むようになったデジタル技術の進化も凄まじい。スタッフでさえ、本当に撮影したのかCGなのか分からないときがあったらしい。

ジョージルーカスの元々のこの作品に対するスタンスは「SFなのにリアルであること、本当にありそうだと思えること」であり、今回の新監督はそのコンセプトをしっかりと守っている。クリエイターが想像でき、それを見る側が理解できて共感できる、ギリギリのSF感とでも言えばいいのかな。このラインの設定は素晴らしいと思った。ぜひこのコンセプトは次作にも引き継いでもらいたい。

というところがざっくり僕が思ったこと。今度出るブルーレイ版に付いているであろう、エイブラムスコメント入りのBehind the sceneなどを楽しみにしつつ、このへんで。

May be the force be with you.
 
 

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とりとめもなく、とりとめもなく

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お久です。川本です。写真はiPhoneで最近適当に撮ったやつの中から拾っているものであまり本文と関係ありません。

新幹線の中で書いてます。新幹線ってなんかヤだよね。人運ぶだけのマシーンみたいで(実際そうだけど)。
そういえば昔、村上春樹が書いていた、船には名前が付いているのに、なぜ車とか飛行機にはついてないんだろう、みたいなエッセイを思い出した。「かもしか号」には乗りたいけど「らば号」は遅そうで嫌だ、みたいな話だったかな。「のぞみ」とかいう抽象的な名前じゃなく、新幹線も一台一台もう少し可愛い名前をつけたらいいのにね。ややこしいか。


てなことで、、、あろうことか12月。これはどういうことなんだろうとか思うけど、この時間のスピードというのはちょっと信じられないよね。冗談じゃなく5年が1年くらいに感じる。5年前にやったことなんてほんとつい最近じゃないかなあ。そう思いません?

今年を振り返ると、とりあえず4作目となるアルバムを作ってました。ひとまずプロデュース的には収まり、曲数も達したので、仕上げにかかっています。

今まで以上に地味で、なんでこんな地味になっちゃったんだろう、とは思える出来ではあるけど、今回のアートワークを担当していただけることになった佐々木さん(いつもありがとうございます!)からは「何か美しいものを見ているようだ」的なコメントをいただいたりもしたので、とりあえあず気をよくして頑張っています。

あと、今年はなぜか昔を振り返る機会が多かった。幼少を過ごした土地に行ったり、昔の友人に会ったり、かつての大学に行ったりとか。こういうことは今までなかったからすごく変な感じがしてね。なんとなく人生全体的にお別れの時期なんだろうかとか、そういう気色悪いことを考えたりもして。そういうことは夜明け前に思うよね。それで眠ろうと思っても眠れなかったり。

なんとなく思うのは、これから急激に老けていくんだろうな、ということと同時にいろんなことを忘れていくんだろうなということ、そしていろんなタフな現実が降りかかってくるんだろうなということ。歳をとるというのはそういうことだね。現実的に良いことはまるでない。まあそれはしゃーない。

でも僕の表現上・創作上の感性というのはあまり変わってないと思うし、音楽的な創作意欲もあまり変わっていない(もともとそれほどなかった、という言い方もできるけど)。音楽が売れる売れない、というのは別として、音楽が探求できる余地はまだある。そう思うんですよ、本当に。ポップ・ロックの文脈で考えるからダメなんであってね。

一番変だなと思うのが「音楽が音楽の役割を果たす」という感覚がまだ残っているんじゃないかということ。音楽はもう単独では成り立っていかないような気がするんですね。至極いい加減に言えばこれからは何らかの商品の付加価値であったり、アテンションであったり、場を共有するための手段であったり、なんというか「導線」というのかな。音楽そのものを聴いて感動する、なんてのがそもそもこれからあり得なくなるんじゃないだろうかという。

僕がBGM的な作り方を始めたのは実はそういう感覚なんです。「音楽はもう単一のメディアとしてのパワーを失っていくだろう」という。2000年代の初めくらいに感じていました。CDが売れないとか、そういう以前の問題として。

簡単に言えばちゃんと聴かれなくなっていくだろうと。「しながら」とか「なんとなく音が聞こえてた」とか。そんなもんなんじゃないかなあ。ミュージシャンはそれを表だって否定しないけど、絶対に思っているはずです。でもそれって実は健全だと僕は思うんですね。音楽がすごいんだ、みたいな感覚がそもそもおかしいというか。

これからは、、、個人的には音楽は続けるだろうけど、ますます非音楽的になっていくのかもしれない。学生時代にやっていたインスタレーションのまねごとのようなことも、そもそも「音楽的な音楽はつまらない」という発想から来ているのだと思う。そういうのはやっぱり変わらないもんですね。

そんなことでとりとめもなく。

以下は最近のコンペ仕事で出してみた曲。フランスのテレビ番組のエンディングテーマだったかな、惜しくも次点で採用されませんでしたが、作ってて面白かったです。いずれにしても電子音楽の方に行こうと思わないなあ。

 

イメージアルバムづくり、一旦終了

studio去年からずっとやってる京都をテーマにしたアルバムですが、ようやく、考えてた曲が出そろったかなというところまできました。まだ通してちゃんと聴いてないのでボツるのも出てくるかもだけど、まあ長かったです^^ 前にも書いたけど、やっぱり住んでる土地に何かしら関係のある曲を書くというのは非常に難しいなあと。

作り方としてはガムランものと同じで「気配へのBGM」。アンビエントというとまあそういう感じだとは思うけど、この作り方は非常にリスキーです。前にも書いたけど、この作り方はその土地に行って、しかも何かリアルなインプレッションを受けることが必要だから。つまり根幹が土地なんですよね。そこに何かしらの(表現する土台になり得る)インプレッションがないと作れない。

京都はそういう意味でいいも悪いもインプレッションを受けているので、まあ何かしら出てくるんだけども、やっぱり住んでるところというのはなかなか相対的に見るのが難しい。なので、なるだけ府外とか外国人の視点で、なおかつあざとくならないように、というのを目指しました(といいつつあざといところはかなりあるとは思うけど)。

これから曲を最終的に詰めていって、曲順決めてミックスしてマスタリングして、アートワーク作ってプレスして、、、なんて工程がひたすら続くので何かと心折れますが、がんばります。

ちなみに最後の方でできた曲をご紹介。

●Eyes of the Mask
これは「能」のイメージですね。でも実際の舞台の感じってすごくドス暗くて好きじゃなくて、もっと舞う感じというんですかね。そこが切り取れないかなと。そこに一瞬一瞬のきちっとした美がある、みたいな。これは少し弦に手を入れる予定。

●Until she comes
何度か比叡山に行ったんですが、あの山の寺(延暦寺)の朝のイメージ。誰もいなくて、寒くて鳥の声くらいしか聞こえなくて、でもそんなさわやかな感じでもなくて、孤独というか。でも「祈り」とかというのでもなくて、単に「しん」とした心境、という感じでしょうか。上手く言えないな。

 
 
 

中国タルコフスキー/【映画】黄色い大地

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中国映画です。

最初に見たのは、昔にアートシネマが流行った時なんですけど、改めて素晴らしいと思いました。
ストーリー、音楽、カメラワーク、映像、カット割り、演出、その他どういう側面で見てもまったく隙がない。完璧。

描かれるのは中国の国共合作時の、変貌する中国のイデオロギーとまだまだ土着的で古い慣習の残る農村との相克。当時の中国の状況については全く詳しくないけど、共産主義という当時の理想が果たして全中国的に良かったのか、ということを我々に問いかけてくる作品です。

オハナシはある共産党員の男が政策を世に広めるための宣伝歌を地方から採取しようと、延安から黄河上流の貧しい農村を訪れ、そこで本当に貧しい農家にホームステイ(?)させてもらうことになります。そこに住む娘が彼の思想に共感し、入党したいと申し出ますが、彼はその旨を党に伝えて戻ってくるからと言い残し去ります。しかしその娘は待ちきれず、ひとりで黄河を渡ろうとする・・・

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という書いてしまえばなんてことない話なのですが、その農村地帯の慣習や風景の描き方(水くみ、売買婚、雨乞いの儀式など)、党員の何気ない行動や言葉が彼女に共感を与えてゆく過程、ほのかな恋心、いろいろなところで挿入される「歌」の数々が圧倒的な説得力を持って迫ってきます。

そして何より感動するのは「不毛」としかいいようがない黄色い大地をひたすら描写してゆく力強いカメラワーク。当時の農村の有りようを強烈なインパクトで見せることに成功しています。僕はこの映像が何より素晴らしいと思いました。まさしく中国版タルコフスキー映画と言ってもいいかもしれない。映像を撮ったのは後に「初恋の来た道」などを監督することになるチャン・イーモウ。

全体的に、中国というのはいろんな意味で本当に「果てしのない国」(上手く言えないけど)なんだ、ということを問いかけているように感じられました。上海で飲茶食って喜んでるような僕に語る資格は全くないでしょうけども。

黄色い大地[レンタル落ち] [DVD]もしごらんになっていない方がいらっしゃればぜひ機会があれば見てみてください。シリアスな映画ですが、党員の男が村上春樹を格好良くしたような感じなのが唯一ニヤリとします(笑)。

※上記画像は福岡市アジアアーカイブライブラリよりお借りしました。
 
 
 
 

カメラ買いました

本日は音楽話は置いといて、カメラのお話です。

以前までソニーのNEXというカメラを使っていて、よく撮れるので気に入ってたんですが、今年の冬頃かな、たまたまキャノンの単焦点のオールドレンズを手に入れまして、アダプターをつけて撮影してみたんです。そうするとあらびっくり、画質がすっきりして、対象が浮かび上がる。「写真が絵になる」じゃないですか。これが新しい発見でして(遅い?)。あ、これが写真なのか、と。

で、これはちゃんとやらないとって思い、ちょうどバイト代も入ったことだし(暇な大学生のようなセリフだ・・・)一眼レフ買っちゃえ!ってことで、、、

Nikon デジタル一眼レフカメラ D3300 18-55 VR IIレンズキット ブラック D3300LKBK

買っちゃいました。ニコンのエントリー機、D3300というやつです。選んだ理由はまず軽くて小さい、というのと、ミドルクラスのモデルと画質に関する性能の差がほとんどなく(AFは劣るらしいですが)、センサーがローパスフィルターレスというところ。あと、義父や義弟がニコンユーザーでして、使ってないレンズを貸してもらえるかな〜という期待もあって(しかしながら僕自身、企業イメージとしてはキャノンの方が好きです。なんとなくだけど)。

当たり前ですが、すごくちゃんとつくってあります。持った感じのしっくり感、堅牢性、ボタンの感じ、シャッター音、操作性。そこはやはりミラーレスとは違うなあと。「撮る道具」だなと再認識。あと、今までファインダーなくてもいいよね、と思ってたけど、ファインダーを覗いてちゃんと決めた構図というのはそれなりにちゃんと理由が生まれます。不思議だけど。

レンズは非常に迷ったんだけど、メーカーレンズは買わずに評価の高いシグマを選択。30ミリの単焦点かなと思ってたんですけど、旅行に行くのでまずはズームが使いよいだろう、ということで割と評価の高いf値2.8通しの17-50を。ズームって構造的に暗くなるから、なるだけf値が明るいものがいいんでしょうけど、明るいズームって必然的にでかくなるんですね。口径が80ミリくらいあります。ちっちゃなd3300に装着すると・・・

SONY DSC

このアンバランスさw 本体よりレンズの方が重いという。。。(たぶん、メーカーはこういう使い方を想定していないと思う) 首から提げるとレンズが下向いちゃいます。でも僕は小さくできる本体ならば小さい方がいいし、大きくならざるを得ないレンズならば大きくてもかまわない、と思ってます。

デジカメは光学というアナログなものと、それを記録するデジタルの関係で成り立つわけだよね。音楽でいうとレコーダーがPCだったりiPhoneだとしても、弾くのは(入り口は)結局ピアノだったりギターだったりするわけでしょ。それと同じだと思う。

なのでレンズは資産と考えて、本体は性能が上がったらさっさと乗り換える、というのが今時じゃないでしょうか。デジタルの宿命ですね。

で、こんな感じの写真が撮れます。一条戻り橋近辺の公園。

F7.1 1/200 ISO400
F7.1 1/200 ISO400

これでプログラムオート、ふだんは絞り優先。なんというかシャープですね。モヤッとしたところがないというか。NEXはわりとふんわりした感じになるけど、その逆。レンズの特性なのかセンサーの特性なのか分かりませんが。

ただ、ビルとか撮ると分かるんだけど広角側の歪曲が気になりますね。こんなもんなのかな・・・

ロードミュージック的曲のつくり方

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ふと気がつくと3月。恐ろしいことに誕生日も迎えまして、歳だけは無駄に食いますね。食わなくてもいいのに。

京都をテーマにしたコンセプトアルバムは粛々と制作を続けています。今年初めくらいかな、まったくアイデアが出なくなって焦りましたけど、ひとつのことを考え続けるとアイデアって出てくるもんですね。なんとなくビジュアルが出てきて、今はそれに乗っかって曲を書いている途中です。前にも書いたんだけど、今の僕の作り方は「絵」先行なんです。曲先行とか詞先行とかありますけど、「絵」先行です。

つまり、頭に描いたビジュアルに曲をつけるという作業で、僕的には「脳内サントラ」と呼んでいますが、今のところこのやり方がしっくりくるようです。逆に言うと絵が浮かばないとさっぱり曲が作れないという、非常に恐ろしいメソッドでもありますが、アルバムの曲数ぶんはちゃんとビジュアルが出揃ったので今のところは一安心。

ただ、今後どうするか、というところでいくと本当にさっぱりなんです。何をテーマにしていいか全然わからない。漠然とはもちろんあるんだけど、明確なものがない。なぜなら今まで「場所」的なものがモチーフになってるんですね。むかしで言うとバリ、今は京都。つまり「旅」的な考え方だと思います。ロードムービーというか、ロードミュージックといえばいいのかな。ここではないどこか、での経験であり、印象を元にするという。

であるとするならばじゃあ「どこ」なんだということになってしまう。長らくバリをモチーフにしてきたけど、簡単にいうとちょっと飽きちゃった^^ というか前作った「Life to Come」というアルバムでけっこうもう自分としてはその「ロードミュージック」的には考えられるだけ考えた、という感じもあって、不遜ながらたぶん同じ作り方をしてもあれ以上のものはたぶんできないだろうと。

今までいろいろな国を旅してきましたが、今のところぴんとくる場所がない。なんとなく近いのはイギリスかな、やっぱり。しかも北のほうのね。スコットランドとかいいかもしれないとか思ってたんですけど、恐ろしく暗いものができそうだと^^ いろいろ考えてるとそういやアメリカって行ったことないなと思いまして。

今まで行かなかったのはたぶん国としてまったく惹かれなかったせいもあるだろうし、何よりジャズもブルースも、ヒッピーもビートニクも、ポップカルチャーもアメリカ文学も、みんなが影響受けているカルチャーがまったく僕の文脈にないんですよね。この歳になって「なんでだろう?」とふと思い始めまして。

で、唐突ながらアメリカに行ってみようと。ものすごくステレオタイプですがとりあえずニューヨークとLAを見てきます。その「合わなさ加減」を実感するのもいいかなと。ソウルが意外に良かったように合うかもしれないし。そういえばソウル、もっかい行きたいですね。

で、遅まきながらアメリカ文学を読み始めています。ありきたりだけど、カーヴァー、オースター、ポールセロー、コーマックマッカーシー等々・・・音楽はやっぱり肌に合わないので聴いてないけど。ジャズをちゃんと聴くべきなんだろうけど。

でもたぶん、アメリカをテーマにしたものは作らないと思います。ただ、なんらかのエクスペリエンスはあるはずなので、そこから出てくるもの、あるいは出てこなければ違う創作手法を模索するべきだと思うかもしれない。というまあ自分に対して揺さぶりをかける時期なのかな、と思った次第。



以下は京都コンセプトアルバム「コトオト」(と暫定的に名付けてます)で制作中の曲。「水」をテーマにした曲です。ざっくりしてますが。京都って実は水がベースメントにある土地なんですね。最近そう思う。イメージは梨木神社。御所のそばのしぶい神社ですが、「染井の水」といって、ここの水は格別です。